2016/4/22 10:05

米歌手のプリンスが57歳で死去

prince-dead1 これまでのキャリアにおけるアルバム累計セールスが1億枚を超える世界的人気歌手、プリンスが死去していたことが分かった。57歳だった。

広報担当者であるYvette Noel-Schureは、本誌ヴァラエティにこのニュースを明らかにした。

プリンスの遺体は、4月21日(現地時間)の朝、ミネソタ州チャナッセンにある彼の自宅兼スタジオであるペイズリー・パーク・スタジオで発見された。現地メディアのTMZが最初に報じた。

プリンスの広報担当は彼の死を認め、「伝説的なアイコンでありパフォーマーのプリンス(本名:プリンス・ロジャース・ネルソン)が、彼の所有するペイズリー・パーク・スタジオで亡くなったことを、深い悲しみと共に認めます」と述べた。

カーバー郡保安官事務所が緊急通報を受け、午前9時43分に現場に駆け付けた。代理人と医療関係者が到着すると、エレベーターの中で意識を失っているプリンスを発見した。心肺蘇生を試みたが、同日の午前10時7分に死亡が宣告された。

カーバー郡保安官事務所は、ヘネピン郡保安官事務所とミッドウェスト検視局と協力して、詳しい死因の解明を続ける。プリンスの検視は4月22日(現地時間)に行われる。

多くの作品を残したプリンスは、4月15日(現地時間)にイリノイ州モリーンに自家用ジェット機を緊急着陸させ、救急医療措置を受けていた。しかし彼は3時間後に退院し、翌日のコンサートに出演した。広報担当が本誌ヴァラエティに伝えたところによると、彼はインフルエンザにかかっていたという。

後になってTMZが伝えたところによると、プリンスは緊急着陸をした日に薬物の過剰摂取の治療を受けていたという。その報道によると、医師はプリンスに24時間は病院にとどまることを助言したとのことだ。

最近プリンスは、自身のツアー『ピアノ&マイク』の公演2件を健康上の理由でキャンセルしていた。彼は1979年以来、『When Doves Cry』や『1999』、『Raspberry Beret』などを含む50曲以上の全米トップ40入りを記録した。

プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、1958年6月7日にミネソタ州ミネアポリスに生まれ、フュージョンやロック、ポップ、ファンク、R&B、ジャズ、ディスコなどあらゆる音楽のジャンルを超えた先駆者として最もよく知られていた。同時に彼は気性の激しいロック・ギタリストであり、筋骨たくましいシンガーであり、繊細で多くの作品を生み出すソングライターでもあり、多岐に渡る音楽の関心の範囲は彼の影響力にこそ及ばないけれど、インスピレーションの源として彼の名を挙げるロッカーやR&Bシンガー、ラッパー、そしてプロデューサーの数はあまりにも多い。

プリンスはグラミー賞を7回受賞し、2004年にはロックの殿堂入りを果たした。第57回アカデミー歌曲・編曲賞を受賞した『パープル・レイン』は同タイトルの映画『パープル・レイン』のサウンドトラックであり、1000万枚を越える売り上げを記録し、24週間アルバムチャートのトップを維持し、同アルバムに収録されているタイトル曲『ホウェン・ダヴズ・クライ』や『レッツ・ゴー・クレイジー』─その大部分はその後四半世紀にほとんど残っていないが─を含め、彼の代表作として繰り返しラジオで流された。

ミネアポリスでジャズシンガーの母とピアニストの父に育てられたプリンスは、7歳から作曲を始めた。両親が離婚すると、彼は両親の家を行き来し、時には隣人の家に居候することもあった。その隣人の息子であるアンドレ・アンダーソンが、後にプリンスのバックバンドのベーシストとなるアンドレ・シモーネである。

1970年代になると、17歳のプリンスは後に自身のバンドのドラマーとなるモリス・デイと、彼の一番最初のマネージャーを務めるオーウェン・ハスニーを含むメンバーとバンドを結成した。ワーナー・ブラザース・レコード(以下:ワーナー)と契約したプリンスは、1978年にデビューアルバム『フォー・ユー』をリリースし、シングルカットされた『ソフト・アンド・ウェット』は、Billboard Hot 100(ビルボードホット100)チャートで最高92位を記録した。(彼はギターからキーボード、パーカッションなどアルバムで使用されている全ての楽器を演奏した)翌年リリースしたアルバム『プリンス』は、シングルカットされた『アイ・ワナ・ビー・ユア・ラバー』の大ヒットにより、アルバムチャートの22位にまで上りつめた。

一方でプリンスが芸術の分野に完全に到達したのは1980年になってからであった。素肌の上に目の眩むようなジャケットスーツと、黒のビキニを身に着けたジャケットが印象的なサードアルバム『ダーティー・マインド』は、彼の将来に渡って先導的な役割を果たすと同時に、70年代のディスコやR&Bに経緯を払った、非常に性的な要素の強いシンセサウンドのファンクミュージックが炸裂する作品であった。アルバムの売り上げは前作を下回るものだったが、評論家はこの作品に夢中になり、ヴィレッジ・ヴォイスの音楽評論家であるロバート・クリストガウは、プリンスをジョン・レノンやポール・マッカートニーと比較し、その後「ミック・ジャガーはペニスを折畳んで帰れ」という印象的な表現でまとめた。

1981年、プリンスは自身が出演したテレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』を含むテレビのための楽曲を手掛けた。同年彼はザ・ローリング・ストーンズの前座を務め、さらにアルバム『コントロヴァーシー』をリリースした。また、多くのサイドプロジェクトのうちの初のプロジェクトであるバンド、ザ・タイムを結成し、幼馴染のモリス・デイをリードシンガーに起用した。1982年、2枚組みアルバム『1999』をリリースしたプリンスは、さらなるスターダムを駆け上がった。アルバム序盤に収録された『リトル・レッド・コルヴェット』、『デリリオウス』のヒットの恩恵により、プリンスは初の全米トップ10入りを果たし、アルバムの売り上げは300万枚を超えた。彼はバックバンドのザ・レヴォリューションと共にアルバムツアーを行った。同バンドは、最終的にリサ・コールマン、ウェンディ・メルヴォワン、デズ・ディッカーソン、ブラウン・マークがメンバーとして名を連ねた。

しかし、これまでの出来事は全て序章に過ぎない。1984年にプリンスは同名映画のサウンドトラックとしてアルバム『パープル・レイン』をリリースし、世界中で最も名声を得た人物の1人となった。『プリンス&ザ・レヴォリューション』名義で発表されたこのアルバムは、シングルカットされた楽曲のうちの2曲がシングルチャートで1位となり、1曲が2位を記録、さらにアルバムはその年のグラミー賞にノミネートされた。映画『パープル・レイン』はプリンスの自叙伝的な作品で、プリンス本人を連想させる主人公のキッドをプリンス自身が演じ、恋人役をアポロニア・コテロ、彼の人気を妬むライバルをモリス・デイが演じ、興行収入的にも大成功を収めた(アルバムと映画は、1週間全米トップチャートで1位を獲得した)。『パープル・レイン』の影響は、アメリカ連邦議会にまで及び、同アルバムの収録曲『ダーリン・ニッキー』の露骨な性表現の含まれる歌詞を不快に感じたティッパー・ゴア(当時上院議員であったアル・ゴアの妻)は、自身が中心となってペアレンツ・ミュージック・リソース・センターを立ち上げた。

プリンスは、自身の文化的資本を有効に使うために時間を無駄にはしなかった。以降も彼は、全米チャートで1位を獲得したサイケデリックなアルバム『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』、続いてアルバム『パレード』をリリースした。同アルバムは、ラジオで大ヒット曲となった『キス』を生み出すと同時に、興行的にはあまり成功を収めなかったプリンスの監督映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサウンドトラックでもあった。彼が女性バンド、ザ・バングルスに提供した楽曲『マニック・マンデー』は、全米チャートで2位を記録した。

80年代後半にザ・レヴォリューションは解散し、プリンスはソロ・アーティストとして次のアルバム『サイン・オブ・ザ・タイムズ』をリリースした。同作は『パープル・レイン』ほどにはチャートを賑わすことはなかったが、評論家の間ではかなりの称賛を得て、この年のPazz & Jopの投票のトップを飾った。ディープなファンクサウンドの楽曲『ハウスクエイク』や、男性と女性それぞれの立場を優しく歌い上げるバラード『イフ・アイ・ワズ・ユア・ガールフレンド』を含む、これまでに蓄積した、放棄された様々な楽曲を抜粋して作った2枚組みのアルバムは、プリンスのアーティストとしてのキャリアの中で最も卓越した瞬間を収めた作品となった。

『ザ・ブラック・アルバム』の発売が中止となった後、1988年にプリンスはアルバム『ラブセクシー』をリリースした。同アルバムの売り上げは低迷したが、その後ティム・バートン監督による大ヒット映画『バットマン』のサウンドトラックを担当し、アルバム・チャートのトップに返り咲いた。1990年代に入り、プリンスは新たなバックバンド『ザ・ニュー・パワー・ジェネレーション』を結成し、全米チャートで1位を獲得した挑発的な楽曲『クリーム』を含むアルバム『ダイアモンド・アンド・パールズ』を1991年にリリースした。物事の途中には多少の厄介な出来事が生じることもあったが、ヒップホップの要素を取り入れた『マイ・ネーム・イズ・プリンス』や、その直後に発表した『セクシー・エム・エフ』など、常にプリンスはその時代に合った音楽を作ることに意欲を燃やした。

1993年、音楽活動における芸術上と財政面の制限に関して、プリンスとワーナーは今や悪名高い法廷闘争を巻き起こしていくことになった。彼は自身の名前を男性と女性の性別を表すシンボルを組み合わせた記号に変更し、「the Artist Formerly Known As Prince(かつてプリンスと呼ばれたアーティスト)」として、レーベルが追いつくよりも早いペースで新しい楽曲を発表した。アルバム『カム』、『ザ・ブラック・アルバム』、『ザ・ゴールド・エクスペリエンス』、『カオス・アンド・ディスオーダー』、そしてスパイク・リー監督の映画『ガール6』のサウンドトラックの全ては、2年という期間に発表され様々な利益を生み出し、そして彼は抗議の証として、頬に“slave(奴隷)”の文字を描くという有名なパフォーマンスを行った。(後にプリンスは、シンボル記号としての活動に終止符をうち、自分の名前をプリンスに戻した)

1996年、ワーナーとの契約から自由になったプリンスは、3枚組みのアルバム『エマンシペーション』を、自身の所有するNPGレコードとEMIの配給を通してリリースした。それ以来プリンスは、大手レコード会社とその都度限定的な契約を結ぶ独立したアーティストとして活動していくことになった(2014年に最も世間を驚かせたワーナーとの契約を含む)。2004年に発表したアルバム『ミュージコロジー』と2007年に発表したアルバム『プラネット・アース』は共にヒットしたが、結果として多くのアルバムは目立たずに終わった。2014年9月以降、プリンスは彼の新しいバンドであるサードアイガールと共に、4枚の新しいノーカット録音の作品をリリースした。

2008年にヘッドライナーとして参加し、注目度抜群のパフォーマンスでステージを熱狂させたコーチェラ・フェスティバルや、2004年のアカデミー賞、2007年のスーパーボウルのハーフタイムショーで見せた一瞬のうちの象徴的なパフォーマンスなど、プリンスのライブ・パフォーマンスは常に見る人の感情を刺激するものとして、新世紀において繰り返される文化的なイベントとなった。彼のツアー集団は独特なものであり、時には小さな町を取り囲んで滞在しながらスタジアムでのライブの後に、たびたび早朝まで小規模なクラブでのセッションを行った。


タグ:
  • この記事が気に入ったらVarietyJapanをフォローしよう

MostRecentNews

  • 1【動画】クリント・イーストウッド監督の最新作映画『15時17分、パリ行...リンク
  • 2第75回ゴールデングローブ賞(2018)、ノミネーションの全リストリンク
  • 3『True story』レビュー(2/5点)【ひろゆき】リンク
  • 4【動画】アダム・ドライバー扮するカイロ・レンが、スターキラー基地に潜入...リンク
  • 5実写版映画『名探偵ピカチュウ ~新コンビ誕生~』、2019年に公開へリンク